依存症がすがってしまうもの
パチンコ屋に行くと、色んな人がいます。
リーチが掛かると液晶に手をかざし念を送る人。他にも「◯○の時は当たるんだよね」と何かしらのジンクスを信じている人などなど。
私も実際、いくつかのジンクスを持っていました。
“久しぶりに着た洋服の日”
“アーティスト◯○の音楽を聞いているとき”
“眼鏡を外すと”
etc.
今思えば、機械相手に何やっているんだろうという内容ばかりですが、タダで当たりを引く確立が上がるんであればやらないよりかは良いという考えでした。
そして何度も何度も神様に祈りました。
「神様、もうパチンコしませんので今日だけ勝たせて下さい...」
「神様、もうパチンコはしませんので借金をチャラにして下さい...」
全くもって都合のいい話です。
「神様、もうパチンコはしませんので借金をチャラにして下さい...」
全くもって都合のいい話です。
そもそも神様はそんな都合良く現れてはくれません。
結局、ジンクスを信じたり、神様に頼ってしまったりという事は何かしらに委ねているという事です。
ただでさえパチンコ台という機械に大切なお金を委ねている上に、自分じゃない何かに期待を寄せているのです。
パチンコに対する責任を転嫁しているのです。
駄目だと思いつつも、何かしらギャンブルをするキッカケを探し、あげく神様やらジンクスやら尤もらしい言い訳をしているのです。
駄目だと思いつつも、何かしらギャンブルをするキッカケを探し、あげく神様やらジンクスやら尤もらしい言い訳をしているのです。
神様がいるとしたら?
果たして神様はいるのでしょうか?
と言うと少しスピリチュアルな話になってしまいますが、パチンコ依存症にとって神様がいるとしたら貧乏神だけです。
何かしらにつけ私をパチンコへと誘い、大切なお金と時間を奪い、ケラケラと笑っている憎たらしい神様です。
何かしらにつけ私をパチンコへと誘い、大切なお金と時間を奪い、ケラケラと笑っている憎たらしい神様です。
本当に神様がいるとしたらそれは依存症を克服出来た時では無いでしょうか?
その時は心の底から「神様有り難うございます。おかげで依存症を克服する事が出来ました。」と言えると思います。
それまでは必死に自分だけを見つめる必要があるのでは無いでしょうか?
何かにすがっている間は依存症を克服出来る筈も有りませんし。
私は去年まで初詣の際等、ついつい神様にギャンブルの勝ちをお願いしていました。
ただ、今年から家族の健康等、本来願わなければいけない事を祈るようにしました。
そうやって少しずつ当たり前の思考を取り戻して行こうと思います。
その時は心の底から「神様有り難うございます。おかげで依存症を克服する事が出来ました。」と言えると思います。
それまでは必死に自分だけを見つめる必要があるのでは無いでしょうか?
何かにすがっている間は依存症を克服出来る筈も有りませんし。
私は去年まで初詣の際等、ついつい神様にギャンブルの勝ちをお願いしていました。
ただ、今年から家族の健康等、本来願わなければいけない事を祈るようにしました。
そうやって少しずつ当たり前の思考を取り戻して行こうと思います。
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